出るも地獄、残るも地獄
翻訳会社社長、そして中小企業診断士という二足のわらじを履く簗田(やなだ)豪一郎。経営者と中小企業診断士の両方の視点を備えている点が、強みである。さて、本日の訪問先は、T市の自動車部品メーカーO製作所(年間売上高100億円、従業員数約200名)。同社のT社長との二人だけの面談である。
『出るも地獄、残るも地獄』
面談の前日に視聴したテレビ番組で、某自動車部品メーカーの社長が発したこのフレーズが、豪一郎の耳から離れない。業界の現状がみごとに表現されている。長引く円高と国内の不況、それに伴う自動車メーカーの海外への生産シフト。自動車部品メーカーの経営者たちは、決断を迫られている。
元請け企業を追って、海外へ進出しても、受注に繋がる保証は無い。当然、現地部品メーカーとの熾烈な闘いが待ち受けている。一方、国内生産のみに固執すれば、受注減は確実である。T社長との面談を通して、O製作所が置かれている状況が徐々に明らかになってきた。テレビ番組で視聴した状況が、そのまま展開されている形だ。O製作所の顧客は、大手自動車メーカーT社の一次サプライヤーR工業。R工業は、O製作所の売上の実に9割を占めている。
さて、O製作所が抱える問題は、深刻である。R工業は中期経営計画に基づき、海外調達率の具体的な数値目標を掲げ、一層の海外シフトを発表した。そして、2012年初頭、新興国の工業団地へ連れていく下請け企業の選別を行った。残念ながら、O製作所はその選に漏れ、今後4年間で段階的に発注量を減らされるとの通告を受けたのである。本日の面談の目的は、O製作所が置かれた状況の把握に加え、O製作所が『目指す姿』の明確化である。『目指す姿』の明確化なしには戦略策定はできない。『目指す姿』と現状とのギャップを埋める数々の施策こそが、経営改善の具体的な項目となるのである。
面談は続く。
が、T社長の話からは、O製作所の『目指す姿』が一向に見えてこない。『目指す姿』の明確化の前に、クリアすべき問題点がいくつもありそうだ。さらに、数々の問題の根源となる企業体質が見え隠れする。
診断士でありながら、経営者でもある豪一郎は、経営者が抱える孤独を身を持って知っている。一方で、今の豪一郎には、T社長の背負う重責を推し量ることはできない。豪一郎は、T社長の想いを、夢を全て引き出し、共有する覚悟であった。
【プロフィール】
早稲田大学卒業。5年間のメーカー勤務を経て、豪州Monash大学へMBA留学。在学中にメルボルンにて翻訳業創業。’97年に帰国し法人化。自動車のマニュアル、契約書等を中心に16年間で100言語以上の翻訳サービスを提供。2009年より海外市場調査案件が舞い込むようになり、改めて経営を学ぶべく2011年に中小企業診断士取得。現在、タイおよびミャンマーに注力しつつ、海外ビジネスコンサルタントとしても活動中。
『目指す姿』
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
さて、自動車部品メーカーO製作所T社長との面談で、同社が置かれている状況をおおよそ把握した豪一郎は、次に、T社長が描くO製作所の『目指す姿』の聞き取りを始めた。
ところが、T社長と話していても、『目指す姿』が一向に見えてこない。そして、話し合いが進むにつれ、根源的な大きな問題点が浮き彫りになってきた。
O製作所には、中期経営計画がない。経営理念もない。それなのに、年間売上高100億円。皮肉ではなく、豪一郎は心底驚いていた。
絶え間なくもたらされる注文に効率よく対処し、毎年繰り返されるコスト削減要求に必死に対応してきた。それが、O製作所の過去40年の歴史であった。
今、O製作所も確固とした方向性、つまり経営理念を持ち、それを全社に浸透させ、大きな一歩を踏み出さざるを得ない状況なのである。そうした危機感が、T社長からは今一つ伝わってこない。
T社長が、嘆かわしげにこうつぶやいた。「昔は、まじめにやってさえいれば、いくらでも仕事が来た。どう仕事を断るか。それが課題だった。」
T社長の発言に、豪一郎は、最近英字新聞で読んだ、ドードー鳥の話を思い出していた。
英語の慣用句にこんなのがある。
as dead as a dodo
時代遅れの、完全に死んだ、という意味だ。
豪一郎は、O製作所が「完全に死んでいる」と考えているわけではない。それどころか、O製作所の昨日までの「強み」を、この鳥に重ね合わせているのである。
ドードー鳥は、およそ400年前に絶滅したモーリシャスの国鳥なのだが、その名前の由来は、ポルトガル語で「のろま」という説がある。日本語では「愚鳩」と呼称され、アメリカ英語では「滅びてしまった存在」の代名詞だ。さんざんである。
ところが、2005年になって、『3000年前のドードーの墓』が発見され、当時のドードーがおかれた「環境」が明らかになったのである。
天敵がおらず、豊富な食料に恵まれたドードーは、徐々に羽を退化させ、身体を大きくしていったのである。
ネガティブな印象のみを歴史に残したドードーだが、きっちり環境適応ができていたのである。
そこに現れたのが人間であり、人間が持ち込んだ動物たちであった。ドードーが適応しきった環境に、突然大きな変化がもたらされたのであった。
環境に適応し過ぎたから、変化に適応できなかった、というのが実際のところなのである。
そして、R工業一社依存で、下請け企業として優秀であり過ぎたが故に、自立できないO製作所の姿が、豪一郎には、はっきりと見え始めていた。
こうした根源的な問題を解決し、その上で、あるいは、併行して『目指す姿』に基づく戦略を策定せねばならない。
「変わらずに残るために、変わる」
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
さて、自動車部品メーカーO製作所T社長との面談が続く。
大手自動車メーカーの二次サプライヤーとして、元請け企業の要求に忠実に従い、着実に成長してきた同社が、自動車業界の海外生産シフトという環境変化に直面し、変化を余儀なくされている。
変わらずに残るためには、変わらなければならない。
ここまでの話し合いで、下請け企業として自立した経営を放棄して来たが故に、中期経営計画を作成する必要がなく、経営理念さえ持つ必要がなかったという歴史が浮き彫りになってきた。
そして、こうした企業として自立のできていない状況は、機能面でもはっきりと確認できる。具体的には、独自の設計部門を持たず、本来の意味での営業部門も持たない。可もなく不可もなしといった特徴に欠ける製品。競合他社が躍起になって育成している、グローバルに動ける人材の育成が行われていない等々、枚挙に暇がない。
R工業という隠れ蓑を外すと、O製作所の現状は、文字通り無い無い尽くしである。
二人は、もう3時間も会議室で話し合っている。互いに午後の予定をキャンセルしての、臨戦態勢である。T社長も豪一郎も、この話し合いの重要性を十分理解している。
O製作所の置かれた状況について話し合い、ホワイトボードにまとめ、「見える化」しながら、進むべき方向性を探る。
夕方になり、T社長を居酒屋へ誘った。場所を変えて、引き続きT社長とじっくり話を続けることにしたのだ。
他の診断士の先生方からは、お叱りを受けるかもしれないが、豪一郎は、時に顧問先の社長を酒場に誘い、いい気分で夢を語ってもらうことがある。一経営者でもある豪一郎は、人によっては、陽気に、テンションが上がった状態になると、初めて本音で語ることを体験的に知っている。
下請け企業としての辛酸、二代目社長としての苦労、後継者であるべき一人息子の医学部進学。会議室では聞くことのできなかった、愚痴や苦労話を、T社長は人が変ったかのように語り続けた。世の経営者の苦悩が凝縮されたかのような話に、豪一郎はじっと耳を傾ける。
「真に自立した、グローバル企業」
二軒目のスナックで、T社長が口にしたO製作所の『目指す姿』は、豪一郎が考えていたものと、不思議とぴったりと一致していた。
この6時間を超える話し合いで、T社長と豪一郎のベクトルが見事に合致した瞬間であった。
ここまで想いを引き出し、しかも共有できれば、次は、いよいよ戦略の策定である。もちろん、戦略の実施まで、豪一郎は、T社長とじっくりと付き合っていく覚悟であった。
明日の朝目覚めたら、すっきりとした気分で、改めて、O製作所の置かれている環境を整理し、O製作所の強みや弱みを分析してみよう。豪一郎は、俄然モチベーションが上がっている自分を感じていた。
いい酒である。
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
自動車部品メーカーO製作所のT社長との長時間に及ぶ面談を通して、「真に自立した、グローバル企業」というO製作所の『目指す姿』を確認した。
さて、『目指す姿』が決まれば、さっそくO製作所の外部環境分析である。「『グローバル企業』か、時代の要請だよね。」豪一郎は、ひとり呟き、ノートPCに向き合った。が今一つ気分が乗らない。『目指す姿』がはっきりした筈なのに、何かが漏れていると感じるのだ。そんな時、豪一郎の携帯電話が鳴った。
相手は、経営者の勉強会『突き抜ける会』で知り合った一級建築士Sであった。東京から、外資系の大手保険会社の営業部長Hが来ているから、会わないかとの誘いであった。とりあえず、何も聞かずに会っておこうか。Sとはそんな間柄である。
名古屋駅構内のホテルのコーヒーラウンジで、豪一郎は6人の男たちに囲まれていた。その内の一人は、豪一郎の経営者仲間の建築士S。Sは建築設計業務の付加価値サービスの一環として、保険業免許を持っている。他の5人は、東京から来た保険会社の社員4人と、名古屋の代理店の経営者である。
この集りの主旨は、こうだ。
豪一郎のコンサルタントとしての主な業務が、中小企業の海外進出支援であることを知ったSが、海外に進出する際に必要な保険のパッケージを紹介してくれるというものだ。
自分の国際業務にとって、一つの営業ツールになることは、間違いない。しかし、豪一郎は、ストーリーが描けないでいた。この席に居ても、実は、豪一郎の頭の中は、O製作所のことでいっぱいなのである。
一通りの説明を聞いた後、豪一郎は、営業部長に質問した。「現状はどうなっているんですか?つまり、現在、たとえばタイに進出している中小・零細企業さんは、どんな保険をかけているんですか?」
名古屋の代理店のUが口を挟んだ。「いや~っ、保険掛けないで、えいや~っ、で進出している企業さん。結構ありますよ。あるいは、元請けさんについて行く形で、あまり理解せずに、元請けさんの言うがままに、元請けさんと同じ保険に入るとか、元請けさんが保険に入っていない場合は、同様に入らないケースも少なくないんじゃないでしょうか?」
その時、豪一郎は、閃いた。
「真に自立した、グローバル企業」
O製作所の『目指す姿』の中で、最も大事なのは、『真に自立した』である。「グローバル」の部分は、あくまでも二次的なものである。実は、T社長も豪一郎も「グローバル企業」であることが絶対条件であるかのように議論を進めていたのである。
『真に自立』していれば、「グローバル企業」でなくても光は見えてくるかもしれない。
そして、豪一郎にとっての、O製作所に対するコンサルタント業務の基本姿勢も明確になった。しっかりとしたストーリーが描けた瞬間である。海外保険もそうだが、それが意味するものは、正に『真に自立した』企業に必要な姿勢なのである。
あなたの商品は何ですか?
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。自動車部品メーカーO製作所のT社長から「真に自立した、グローバル企業」という『目指す姿』が告げられた。豪一郎は、『真に自立した』企業になることが何よりも優先する目標であり、『グローバル化』はあくまでも二次的な目標であると捉えることで、コンサルタントとしての姿勢を定めた。
『かんぱ~い!』
今夜は、豪一郎が所属している経営者の勉強会『突き抜ける会』の懇親会である。金山駅前にある’80年代を彷彿とさせる雰囲気のパブに20名のメンバーが集まった。メンバーの全てが経営者。月に何度か集まり、経営の勉強やら、楽しいイベントやら、悩みも成長も共有できる仲間たちである。
宴も酣。服飾資材問屋の跡継ぎでありながら、コンサルタントを目指すY君が、オーダーメイドの家具店を経営するA氏にしつこく質問を投げかけている。
『何がいけないんだろうか?』豪一郎は聞きながら、ぼんやり考えていた。
Y君は、よく勉強している。時折、豪一郎に経営の話をし、あれこれと質問をしてくる。豪一郎は、いつも丁寧に対応することにしている。
『A先輩、先輩のヴィジョンは何ですか?
A先輩の商品は何ですか?つまり、何を売っているのですか?』
『ヴィジョンなんて考えたことないよ。何が商品かって、この家具が売れれば、それでいいんだよ。』
A氏は、うんざりした表情を浮かべながらも、目の前に実際に家具があるかのように両手を拡げて見せた。
最近A氏の店舗近くに大型量販店が進出し、売上が大きく落ち込んだ、とのA氏の発言が発端のようだ。
豪一郎は、ぼんやりと思案する。
A氏の店舗と量販店は本当に競合状態にあるのだろうか?
豪一郎は、うっかり語り始めてしまった。
差別化には、3つの分類が考えられる。手軽型、商品重視型、そして密着型である。
量販店の家具は、低価格だが最低限の機能しか備えておらず、品質もそこそこである。これは、手軽型であろう。一方、オーダーメイドのA氏の家具は、商品重視型か密着型であろう。とすると、量販店に流れた顧客はあまり気にする必要はない。そもそも、A氏の家具の本当の魅力には気づいていないのだから。A氏が気にすべきは、A氏の家具がもたらす効用に気づいているにもかかわらず、他の商品でその効用を満たし、A氏の家具を買わなくなっているお客さんである。他の商品とは、必ずしも家具とは限らない。つまり、A氏が売っているのは、家具ではなく、その家具がもたらす効用なのである。
『豪一郎。わかったよ。自分が何を売っているのか見えてきた。ヴィジョンも描けそうだ。今夜じっくり考えてみるよ。』A氏は目を輝かせて豪一郎を見つめていた。
ところで、自動車部品メーカーのO製作所は、『何を売っている』のだろうか?
「中間財」を製造販売する企業のマーケティング。
豪一郎は、一瞬にして酔いが醒めた心地であった。
サブタイトル1:『戦場』を知ろう
サブタイトル2:VE提案が重視される中間財の販売
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
「オーダーメイド家具屋さんが売っているのは、家具がもたらす効用である。」との自らの発言に、豪一郎は考え込む。
では、自動車部品メーカーO製作所は、『何を売っている』のだろうか?
豪一郎は、大学卒業後に勤めた、電線メーカーのことを思い出していた。配属先の資材部には二つの課があり、一課(主資材課)では、電線のコア部分になる銅の購買を、二課(中間財課)では、被覆部になる絶縁材料を購買していた。
「それ自体では特に機能しない」原料を一課が調達し、「他の製品に組み込まれる」材料を二課が調達していた。
ところで、O製作所が生産している樹脂成型品はR工業で電装品モジュールに組み込まれ、自動車メーカーへ納入される。従って、O製作所の製品は、一般的には、「中間財」と定義される。
さて、この時、豪一郎が想いを巡らせていたのは、一課に訪れる取引先と二課のそれとの違いであった。一課には、商社マンが、二課にはメーカーの営業マンと技術者が訪れていた。
両課への訪問者の違いは、取り扱う原料・材料の性質に起因する。一課で購入する原料は、いわゆる市況品であり、電線メーカー向けに特にカスタマイズされることはない。そして、一課で重視されるのは、安定供給とコストであった。一方、二課が重視するのは、VE提案、すなわち品質や機能を落とさずに、如何にコストダウンを実現するかの提案である。すぐれたVE提案を行うには、材料が使われる現場・機械の特徴を知り、顧客メーカーと協力しながら、材料が組み込まれる最終製品の仕様に合わせてカスタマイズする必要がある。こうして顧客と二人三脚で開発された製品には、一般的には競争相手は存在せず、顧客との長期的で安定した関係を継続できる。
さて、ここで豪一郎は改めて考える。
O製作所は、『何を売っている』のだろうか?そして、売上の9割を占めるR工業との長期的で安定した関係は、なぜ今、断ち切られようとしているのだろうか?
O製作所の製品は、R工業にとって、『中間財』として機能していないのではないだろうか?『主資材』と『中間財』の間の性格を持つ製品を、『主資材的な中間財』と呼ぶ。最終製品に組み込まれる『中間財』でありながら、充分なVE提案がなされない、あるいはその必要がないために、安定供給とコストのみが重視されてしまっている『中間財』のことである。
O製作所の現在の営業体制、製造体制では『中間財』を提供できておらず、実際には、たとえば、新興国の製品に簡単に取って代わられる『主資材的な中間財』を提供しているのではないだろうか。
独自の設計部門さえ持たない、受身なO製作所は、R工業にとって、グローバル化の進む戦場では戦力としては期待されなくなっているのかもしれない。
豪一郎は、O製作所への『経営改善提案書』に『戦略シート』を差し込んだ。シートのタイトル欄には、「『戦場』を知ろう。」と記されていた。
今週は、いつもお世話になっている公証役場さんにご登場願いますっ!
サブタイトル:海外進出に必要な書類の翻訳・認証
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
顧問先のO製作所は、VE提案を伴う中間財の供給ができていないのではないか、と考えた豪一郎は、『戦略シート』に、「『戦場』を知ろう。」と書き入れた。
その後の、豪一郎の動きは、早かった。まずは、O製作所の役員全員との面談と本社工場の見学を手配した。そして、タイへの航空チケットとホテルを手配した。
ここ数週間、O製作所のケースを念頭に、豪一郎は過去2年分の経済新聞に目を通した。また、新興国進出セミナーにもいくつか参加した。そして、この段階で、豪一郎はタイを見ておこう、と判断した。なぜタイなのか?それを、T社長と自分自身にきちんと説明するためにも、今、タイを見ておきたい。O製作所の役員との面談を2週間後、タイ視察を3週間後に控え、にわかに忙しくなってきた。急遽タイ訪問を決めた為、前倒しで済ませておかなければならない仕事がいくつかあるのだ。
その一つがこんな業務である。
公証役場の事務所。テキパキと書類を作成する女性スタッフ。豪一郎にとって、すっかりお馴染の風景である。
豪一郎が経営する翻訳会社の主な取扱分野は、技術文書や会社案内、契約書といった、いわゆる産業翻訳の分野である。この業界の最近の顕著な動向として、公的文書の翻訳案件の急増が挙げられる。東海地方でも製造業を中心に新興国へ進出する企業が急増したことが、その背景にある。この動きは、中小零細企業にも急速に拡がっている。
本日の任務は、自動車部品メーカーさんご依頼の登記簿謄本と戸籍謄本の翻訳文書に対する、公証役場認証の取得である。
同社がタイに工場を開設し、初期メンバーとして数名の従業員さんが赴任される、ということだ。
認証対象の書類を手に、豪一郎は、顧問先のO製作所のことを考えていた。O製作所の明日の『戦場』はどこか?それは、R工業との新しい付き合い方かもしれないし、国内の他の企業かもしれない、あるいは新興国のどこか、ひょっとしてタイなのかもしれない。
さて、海外進出手続きには、FS(事業化可能性調査)、現地パートナー探し、工場・店舗用地確保など煩雑な手続きが山のように待ち受けている。当然、日本国内でも数々の書類を用意し、英語等に翻訳する必要がある。そして、翻訳後にはいくつもの認証過程を要する。登記簿等の公文書は、翻訳すると私文書になってしまうため、認証を受けることで、準公文書のようなステータスを取り戻す必要があるのだ。必要書類の翻訳に始まり、公証役場ならびに法務局での認証、そして、外務省での公印確認(アポスティーユ)と、一連の手続きには、通常2週間程度を要する。
豪一郎が、公証役場を訪れる頻度は、以前は月に1度程度であったが、ここ2年ほどは、週に1度のペースになっている。
ところで、認証後の、公証人の弁護士氏との雑談が、いつ頃からか、豪一郎の楽しみになっている。
この小説の話を、昨日、公証人の先生にしてみた。
次回訪問時に、コピーが欲しい、と依頼された。
嬉しかねっ!
サブタイトル:立場を変えて多面的思考
サブタイトル:『グローバル人材』の要件
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
中小零細企業も新興国へ進出する時代になり、顧問先であるO製作所には、現地でリーダーシップを発揮できる『グローバル人材』は居るのだろうか、と豪一郎は考える。
さて、只今、公証人の弁護士氏との雑談中。
『で、豪一郎君。今日のネタは?』
公証役場を訪れるたびに、豪一郎は少し笑えるネタを用意する。公証人の弁護士氏も、豪一郎のネタを楽しみにしている。
某紙で見つけた話である。
容姿に自信のない日本人女子大生が失恋した。その時、寅さん好きのアメリカ人留学生が彼女を慰めた。「人間の顔じゃない。」
この留学生君、時折、細かな文法上の間違いを犯すのだ。もちろん、「人間は顔じゃない。」と言いたかったのだ。
豪一郎は、弁護士氏の反応を見る。が、弁護士氏は、満面に笑みを浮かべて、こう言った。
「豪一郎君、それは作り話だね。」
弁護士氏によると、日本語を母国語とする人が、外国人と日本語で会話をする際、多少の文法上の間違いなど問題にしない。女子大生を慰めたいという気持ちを、女子大生はちゃんと汲み取るだろう、と言うのだ。日常、日本語を話している時、我々は、文脈に則して次の一語をごく自然に推測している。従って、それくらいの間違いは無意識に修正され、解釈されるだろう、というのだ。
弁護士氏は、めずらしく、なにやらネタを思いついたようで、楽しげに話を続けるのであった。
昔、日本のある総理大臣が、外国で演説し、’’We eat lice.’’と言ったそうな。意訳すると、『私たち(日本人は)昆虫のシラミを主食としている。』ということになる。
この話なら、豪一郎も中学生の頃に聞いたことがある。初めて聞いた時、RとLの発音には気をつけよう、と強く思った。その後、RとLの発音を気にする時、いつもこの話が頭のどこかに確実にあった。
豪一郎は、首を振る。中学生ならともかく、今の豪一郎はそうは思わない。こんなのは、作り話に過ぎない。RとLの発音の違いを強調しようと考えた教師の仕業か?
RとL。英語を母国語とする人が、英語で日本人と会話をする場合、この程度の発音の間違いは、聞き手が文脈の中で勝手に修正して聞きとってしまうから、厳密にはLと発音されていたとしても、それが認識されることはない。あるいは、そうした間違いを微笑ましく思いながらも、ちゃんと理解してくれるはずだ。
ここで、豪一郎は、考える。
立場を替えると、物事を多面的に解釈するようになるものだ。豪一郎の思考が、単なる笑い話から、『グローバル人材の要件』に転換された瞬間である。
『グローバル人材』の要件。
それは、『相手の立場』になれる能力ではないか?外国人との付き合いに限らず、人との付き合いで最も大切だと言われるのが、『コミュニケーション能力』だが、その根本も同じく、『相手の立場』になれるという寛容さであろう。
では、『グローバル人材』にとっての英語とは?と豪一郎は考えていた。
初めて味わった、かなりな『難産』
言わんとすることを、充分に伝えられているのだろうか。。。
サブタイトル:『個』の確立
サブタイトル:「Liberty」の精神を理解している人材
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
公証人との会話を通し、『相手の立場』になれる能力こそがコミュニケーションの要諦であると結論付けた。では、『グローバル人材』にとっての英語とは?と豪一郎は考える。
今夜は、豪一郎が所属する、異業種交流会の英会話クラブのレッスンである。生徒は、すべて海外に野心を抱く経営者たちである。レッスン後の懇親会で、外国人講師D氏が、こんなことを言った。
「レッスンの後半は、上級・中級・初級といった英語のレベルに関係なく、全員でゲームがしたい。」との要望に、当初D氏は頭を抱えたという。
ところが、最初のレッスンで考え方が変わった。参加者全員で行った英語ゲームの盛り上がりに、驚かされたという。他の団体ではありえないことだと、興奮気味に話す。
豪一郎は、こんな風に考えている。
英会話を成立させるのは、英語力だけではなく、個々の話者のコミュニケーション能力ではないか?
そして、その根底にあるのは、「Liberty」という概念ではないか、と豪一郎は考える。
「Liberty」という単語を福沢諭吉は「自らを由(よし)とする」と訳した。ここで「由(よし)」とは、よりどころである。
一般には、「自由」と訳される。ただし、「勝手気まま」といった意味ではない。自らを磨き、国籍、言葉、文化などのさまざまな違いを超えて、万人から理解され、信頼されるしっかりとした「個」を確立するということではないだろうか?
そして、「自らを由とする」つまり「自由」を福沢諭吉は、当然、相手の立場からも表現しているに違いない。「私自身を由とする」と「貴方自身を由とする」の両方向の見方を「自由」の二文字で表現しているのだ。
こうした考え方は、ダイバーシティ(多様性)に通じるのではないだろうか?異なる考え方への寛容さを持つには、まずしっかりとした独自の考えを持たねばならない。それこそ、互いに「自らを由とする」ことではないだろうか?
「Liberty」の背後には、しっかりと確立された「個」と「ダイバーシティ」という一見互いに矛盾する二つの概念が共存している、と豪一郎は考える。
ちなみに、「Liberty」と似た単語に「Freedom」があるが、「Liberty」は「過去の抑圧・拘束状態」を暗示している。だから、自由の女神も、theStatue of Libertyなのである。
「アメリカはイギリスの植民地だったからね。」豪一郎は、そう呟きながら、閃いた。元請けから自立を促され、明日の活路を見出さねばならないO製作所は、R工業から「Liberty」を勝ち取ろうとしているのかもしれない。そして、O製作所にとっての『グローバル人材』とは、「Liberty」の精神を理解している人材のことなのかもしれない。
「Liberty」。「真に自立した、グローバル企業」をスローガンとして掲げたO製作所に、いかにもふさわしい概念である。豪一郎は、そう思った。
サブタイトル:インターナルマーケティング
サブタイトル:社員のモチベーションの重要性
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
本日は、某勉強会での講師のお仕事である。『インターナルマーケティング』をテーマに、その解説および成功事例の紹介といった内容である。
ところで、このイベントは、講演会、ボーリング大会の2部構成である。参加者は同勉強会の新入会員およそ80名であり、主催は、同勉強会の新人勧誘委員会である。同委員会の委員長は、豪一郎が懇意にして頂いているM鋼材の専務I氏である。
講演を終え、ボーリング大会に参加中の豪一郎は、派手な着ぐるみに身を包み、汗びっしょりになって盛り上げるI氏の姿に腹を抱えて笑った。一方で、新人勧誘委員会スタッフの動き、その連携に、目を丸くしていた。これぞインターナルマーケティング、と豪一郎は感動していた。
さて、『インターナルマーケティング』とは、企業が従業員に対して行うマーケティングのことを言う。これに対し、企業が顧客に対して行う一般的なマーケティングは、エクスターナルマーケティングと呼ばれる。
美容院を例に考えると、立地が良く、居心地のいい店舗であっても、直接お客様に接する美容師のモチベーションが低く、暗い顔で接客されたらアウトである。また、美容師間に技量の差があり、来店の度に受けられるサービス内容にばらつきがあっては、けっしてリピーターは獲得できない。
『インターナルマーケティング』とは従業員へ働きかけて、質の高いサービスの提供を可能にし、それを顧客満足に繋げ、リピーターを増やし、最終的には企業の利益に繋げるという考え方に基づいている。
『インターナルマーケティング』の具体的内容は、以下の通りである。
① モチベーション(例:優秀社員の表彰)
② 能力開発(例:社外講習会への参加)
③ 標準化(例:マニュアル化、機械化)
さて、ボーリング大会に話を戻そう。イベントを盛り上げようとする、新人勧誘委員会の各スタッフのモチベーションの高さ、会場間の誘導の所作、手際の良さ。全スタッフのベクトルがピタリとあった様子に、I委員長のリーダーシップと、企業経営者としての能力の高さを感じる豪一郎であった。
『インターナルマーケティング』は、一般にサービス業で重要視される概念だが、どんな商品にもサービスの要素が含まれる。モノが商品であったとしても、何らかの付加的なサービスが伴う筈である。モノだけでは差別化が難しくなってきている今日、サービスこそが競争力の源泉と言えるのではないだろうか。それは、豪一郎の顧問先であり、VE提案を伴うべき中間財を製造販売するO製作所にも当てはまる筈だ。
マーケティングを真に機能させるには、営業担当者だけでなく、全企業活動(財務・人事・R&D・製造など)のベクトルを合わせる必要があるのだ。
さて、いよいよ来週は、O製作所の全役員との面談である。同社内に新人勧誘委員会のようなプロジェクトチームを作り、自ら率いてみたい。そんなことを考える豪一郎であった。
サブタイトル:集団浅慮
サブタイトル:組織内の多様な価値観の重要性
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
今日は、顧問先のO製作所の役員との面談である。参加者は、Y専務、F取締役(海外担当)、S取締役(R工業担当)、M開発部長と豪一郎である。T社長は急用で、この日の会合を欠席した。
タイ中部の洪水の被害状況に始まり、豪一郎がまとめた「タイ自動車産業の概観」に沿って、タイの自動車市場について、更に、タイ進出による新規受注の可能性などについて意見交換が行われた。
最も活発に発言したのは、売上の9割を占めるR工業担当のS取締役であった。一方、M開発部長は、新商品開発の度重なる失敗事例を、物静かな口調で語るだけであった。
ところで、S取締役を中心に妙なまとまりの良さが感じられる。「集団としてまとまりが良い」状態を「集団の凝集性」というが、超優良企業の多くは、一般に「凝集性が高い」といわれる。それなのに、豪一郎は、言い知れぬ不安に押しつぶされそうになっていた。
全ての議論をS取締役がリードし、他の役員の発言も、全てS取締役により結論に導かれる。
R工業絶対という価値観により、一体感が確立されており、その価値観を守り続けることで、自分たちは存続しうるという、過度の自信が感じられる。それは、極めて閉鎖的な心理状態であり、組織として存続するための代替案が、現実問題として議論される土壌が、どこにも見つけられない。
心理学に「集団浅慮」という概念がある。「集団で意思決定を行うと、個人で行うよりも短絡的な決定がなされるという現象」である。
横断歩道を一人で渡る時には、左右をしっかり見て、信号を確認して渡る。ところが大勢で渡る際には、前の人について行ってしまい、信号を確認せずに渡り切ってしまった、という経験はないだろうか?
集団の一体性を維持するために、重視されるべきルールの順守(信号)や迫りくる危機(自動車)が無視されているのである。
実は、組織としての「凝集性の高さ」は、「集団浅慮」に陥る前提条件となるのである。では、超優良企業と「集団浅慮」に陥る企業との差は何か?
それは、リーダーが指し示す方向性の良し悪しである。そして、良い方向性とは、環境の変化を巧みに織り込み続ける、組織の柔軟性、あるいは多様な価値観に対する寛容さによって生み出されるのである。
「集団浅慮」を提唱した米国の心理学者アーヴィング・ジャニスは、その予防法を7つ提示している。
その内、O製作所で実践すべき項目を、豪一郎は、「戦略シート」に書き込んだ。
取締役会内に、二つのグループを作ろう。そして、外部の専門家を両グループの議論に立ち会わせ、意思決定プロセスに多様な要素を織り込もう。最終的には、全メンバーを「批判的評価者」に育て上げねばならない。
豪一郎は、一人話し続けるS取締役から視線を外し、M開発部長に無意識に微笑みかけていた。さあ、来週はタイ視察である。
サブタイトル:タイ視察
サブタイトル:リスクを引き下げる情報収集
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
「正反対のこと言わはるなぁ」
タイ視察の同行者I氏は、昨夜と今朝の面談相手二人から得た、対照的な意見に面喰っていた。先入観を持たず、人の意見をストレートに受け取り、独自の解釈のできる賢い漢(オトコ)である。
タイ視察二日目。プロムポン駅前のEホテルのラウンジで、シンハー・ビールを片手に、I氏は機関銃のごとく大声で語り続ける。I氏は、大阪出身の広告代理店経営者。名古屋のモノ作りにほれ込み、経営者仲間の『脱下請け』のサポートを生きがいにしている。東京や大阪で仕事を取り、それを名古屋の経営者仲間たちに製造させ、彼らの多角化展開を助けているのである。
さてタイ進出に関し得られた、面談者二人の対照的な意見とは、こんな感じである。
タイ駐在の銀行マンA氏:
何のあてもなくタイ進出では、いささか乱暴ではないか。まずは、タイで顧客を確保することだ。先月もT自動車系列の一次サプライヤーを、視察と称して部品メーカー5社が訪れた。だが、視察とは名ばかり。いずれもタイ進出から2年近くも経つが、何も注文を得られず、泣きついてきたとの事。見切り発車は、リスクが高すぎないかなぁ。何より、タイ進出の動機が曖昧な企業さんが、最近多すぎる。
これに対し、タイ駐在の商社マンH氏:
タイに生産拠点がないと、まともに商談を受けてくれる部品メーカーはないよ。慎重過ぎるのも考えもんだ。まずは、タイに拠点を持つこと。それにしても、今さらタイでもないかな?タイの自動車産業では供給ピラミッドが出来上がっており、手遅れだよ。N自動車系列の一次サプライヤーは、30%の原低を合言葉に、現地サプライヤーの育成に躍起になっているよ。もう、ミャンマーの時代じゃないのかな?
「豪ちゃん、要はどうリスクを取るかやなぁ。日本人は、横並び主義で、リスクを取らへんしな。」
二人の面談者との話を通して、豪一郎が感じたのは、「リスクを取らない」のではなく、「日本人は、リスクの大きさを的確に測る術を知らない」のではないか、ということである。あるいは海外での決断と言う状況が、通常の思考回路を麻痺させてしまうのではないか、とも思う。未知のものは過大もしくは過小に評価しがちである。
恐れるに足りない「小さなリスク」に二の足を踏んだり、「大きなリスク」に無頓着な対応をしてしまっているのではないか。
経営者は、時に限られた情報だけを基に、つまり一定の制約の下に決断を下さねばならない。しかし、まだ情報を得られるのではないか?目の前の制約は本当にどうしようもない制約なのか?と疑う必要がある。リスクの大きさをより正確に測るには、疑う姿勢を常に持つことである。
経営判断に、唯一最善の答えはない。諸条件の精査が、リスクを引き下げてくれる。対照的な意見に、O製作所の置かれた環境を当てはめる豪一郎であった。
サブタイトル:M&A戦略
サブタイトル:事業承継、弱点補強
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
プロムポン駅前のEホテルのラウンジで、ノートPCに向かう豪一郎の手が止まった。印刷会社会長M氏のブログを読み進める豪一郎は、胸が熱くなるのを感じていた。十数年に亘りお仕事を頂いてきた印刷会社のオーナー社長が、一年前、会社を同業者に譲り、会長に退いた。いわゆるM&A(Mergers and Acquisitions)である。会長最後の日の模様が、ブログには淡々と認められている。
後継者がおらず、先代から引き継いだ会社と50数名の従業員の行く末を案じ、悩んだ末の結論だったという。豪一郎は、その決断の重さに想いを馳せていた。一人の解雇もなく事業を引き継ぐことを条件に、M氏は一年間だけ会長として残ることにした。
ブログには、M氏と従業員の皆さんで撮られた画像がアップされており、「Mさん、お疲れさまでした!」と書かれた横断幕が壁に掲げられている。
経営者の背負う責任の重さ、責任の取り方について、一人考え込む豪一郎であった。
さて、かつてはネガティブに捉えられたM&Aだが、昨今では友好的M&Aを活用する中小企業が増えている。愛知県内では後継者問題を抱える企業の割合は、実に7割に上ると言われる。
尊敬するM氏の英断に胸を熱くしながらも、豪一郎は顧問先のO製作所の事を考えていた。友好的M&Aには、事業承継の他にも、弱点補強といったメリットがある。自社が持たない技術や商品を外から買うことで、新市場に道が開け、成長を加速できるのだ。
O製作所は、今のまま新興国に進出して、勝ち目はあるのだろうか?『強みを活かし機会をものにする』という戦略に加え、『機会を逸しないように弱みを克服する』といった戦略も、豪一郎は考えるようになってきている。O製作所の弱点である設計部門を補強できるような企業を買収すれば、短時間で、弱みを克服でき、効率よく新事業展開ができる。
しかしながら、M&Aは慎重に事を運ばねばならない。いざ買ってみたら、目当ての技術や人材が既に散逸していた、という失敗例もある。異なる企業文化や社風、人事制度をうまく融合し、取得企業の価値を最大限引き出す経営ノウハウも欠かせない。M&Aの対象が新興国の日系以外の企業であれば、多様な習慣やルールに対応できる経営陣も必須であろう。何より大切なのは、買収後の経営方針の明確化である。買収効果の最大化といった視点が欠かせない。
リスクを軽減するには、選択肢をできるだけ多く持ち、しっかりと比較検討するに限る。
タイ投資委員会(BOI)の方針変更に伴う、昨今の日本企業の駆け込み申請に、心を痛める豪一郎であった。消費税導入直前の駆け込み購買に後悔した経験を持つ人は、少なくない筈だ。O製作所には、余計なリスクを取らせたくない。
豪一郎は、O製作所への『経営改善提案書』に『戦略シート』を差し込んだ。シートのタイトル欄には、「友好的M&A」と記されていた。
サブタイトル:NATO
サブタイトル:現地で得られる情報
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
「豪一郎!」
大きな声の男が現れた。大学時代の友人Kである。現在、ジャカルタでコンサルタント会社を経営している。ジャカルタから駆け付けてくれたのだ。
タイ視察の同行者Iと、Kとの3人で、プロムポン駅前のEホテルを出て、スクムウィット通りソイ24に沿って、歩き始めた。
バンコクでは、スクムウィット通り等の大通りは「タノン」と呼ばれ、そこから垂直に延びる路地をソイという。そしてスクムウィット通りの北側のソイには奇数の連番が、南側は偶数の連番が付けられている。この仕組みはどの「タノン」でも同じだ。
ちなみに、バンコクの大渋滞の原因は、ソイにあると言われる。バンコクは、交通行政が場当たり的で、欲望のままに広がっていった街だが、ソイはその象徴である。
ソイ24から延びる小道に、蕎麦割烹の店がある。3人は、奥座敷で乾杯した。
ジャカルタから来たKに、改めて礼を言う豪一郎に、Kはこんな風に返した。
K:名古屋から広島への出張は、遠く感じられるが、福岡出張帰りに広島に寄るのは、そうでもない。ジャカルタからバンコクへの出張は、そんな感じ。だから、ジャカルタを視察に来る企業さんに、「進出するなら、どの国か?」と聞かれると、新興国の経済成長、中所得層の急増、2015年のASEAN統合を考えると、どこでもいいから出ておいたら、と思うね。
Kからは日本企業の意思決定の遅さについても聞かされた。日本企業と韓国企業に見積を送ると、韓国企業は1週間後には発注が来る。一方、日本企業は、1週間後に検討を始めるというのだ。Kから、NATOという日本企業を揶揄する言葉を聞かされた。No Action, Talk Onlyだという。
Kは、ジャカルタに拠点を持って2年になるが、急速に事業を拡大している。新興国に拠点を持つ利点をKはこんな風に語った。
K:とにかく日本では会えない人に、比較的簡単に会えるんだ。領事館や商工会の偉い人、日本の大企業の現地駐在員。日本では、まず会うチャンスはないよ。
留学時代、豪一郎はKと同じような体験をした。領事の御子息が同級生で、領事にお会いしたことがある。また、現地日本人学校でのアルバイトでは、大企業の現地責任者と、学校運営で頻繁にお会いすることができた。
良質の情報をできる限り多く集めることが、リスク軽減には必須である。現地での付き合いには、貴重な情報が満載である。
Kは、こんな話もした。
K:日本にいたら、まさかライバル企業に会いに行くって考えられないでしょ。でも、現地ではあるんだ。あるいは、ライバル企業の日本人駐在者と酒場のカウンターで隣り合わせて、深い話をすることも稀なケースではない。
海外にいるという開放感と、日本人同士という親近感がなせる技なのかもしれない。
サブタイトル:インラック政権の経済政策
サブタイトル:「中所得の罠」を回避し、次なる高みへ
翻訳会社社長でありながら、中小企業診断士でもある豪一郎。
タイ視察3日目は、ヘマラート・チョンブリ工業団地に足を伸ばした。
同工業団地はチョンブリ県シーラチャ市ボーウィン地区に位置し、バンコク市内より約110Km、国際貿易港レムチャバンや日本人駐在員が多く住むシーラチャ市内までわずか25Kmと好立地である
昼食は、シーラチャ市内の海鮮レストランでとることにした。海岸に突き出された作りの建物が、潮風を呼び込みなんとも心地よい。現地コンサルタントH氏や同行者I氏とのタイ談議が弾む。
H氏の話しぶりは小気味よい。まずは、タイの労働事情について。
2012年4月、バンコクなど7都県の法定最低賃金が一日300バーツ(約750円)に引き上げられ、2013年1月に残る70県でも改定された。産業界の延期要請にも関わらず、インラック政権の看板政策が強行された形だ。
一方で、失業率は1.0%を下回るほぼ完全雇用状態で、人手不足は深刻である。
次に、タイの金融政策に話が及ぶ。2012年10月に政策金利が0.25%引き下げられた。一昨年の洪水に配慮して行った2012年1月の引き下げ以来、9カ月ぶりのことであった。内需刺激を優先する「バラマキ型」の経済政策を掲げる現政権による、中央銀行への政治圧力の結果だとする見方もある。
さて、顧問先のタイ進出を検討中の豪一郎にとっての一番の関心事は、タイ投資委員会(BOI)の動向である。
2012年10月に就任した新事務局長は、企業への優遇措置の適用基準を見直す方針を明らかにした。BOIはタイ工業省傘下の機関で、タイで事業を行う企業に対し、法人税や輸入関税など税制面の恩典を付与する。
全国77都県を3つのゾーンに分け、ゾーンごとの経済発展の度合いに応じて、優遇措置に差を付けているが、今後はゾーンを廃止し、産業クラスターや国境地域への工場誘致を推進する方向に舵を切る。2013年半ばの実施は延期されたが、タイが経済成長を継続するためには、同制度の変更を推進して行く方針自体は不変と見られる。
インラック政権は「中所得の罠」を回避すべく、躍起になっているのだ。今回のBOIの方向転換もそうした政策に則った修正であろう。
ちなみに、「中所得の罠」とは、「ある経済体の1人当たりの平均収入が世界中等レベルに達した後、発展戦略及び発展方式の転換を順調に実現できなかったために、新たな成長の原動力不足を招き、経済が長期的な停滞に陥ること」を指す。「貧富の格差の拡大、産業アップグレードおよび都市化の停滞、社会的問題の突出といった、高度発展において蓄積された問題が集中的に顕在化する危険性をはらむ。」ともされる。「中所得の罠」を回避し、次なる高みを目指して欲しいと、無意識に望む豪一郎であった。
さあ、タイ視察もあとわずか。帰国後の報告会を思い浮かべながら、O製作所への『経営改善提案書』に目を落とす豪一郎であった。
サブタイトル:新興国進出成功事例
サブタイトル:明確な進出動機が道を開く
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
本日はアマタナコン工業団地内の日系企業2社との面談である。移動の車中で、現地の日本語新聞に目を通す豪一郎。ある記事に目が止まった。
アマタナコン工業団地とアマタシティ工業団地を運営するA社社長に対するインタビュー記事である。ちなみに、ナコンとは、都市を意味し、タイ初の工業団地ナワナコン工業団地の名にもこのナコンが見られる。
さて、北部工業団地の洪水に加え、自動車産業の継続的な発展により、A社は更なる拡張を推し進めている。
洪水の不安はタイ国内どこにでもあるが、アマタナコンは海に近く、アマタシティは山がちで勾配を取りやすいといった立地条件により、排水に有利だと強調されている。
最近の動向としては、中小企業の入居の増加、賃貸工場の需要の伸びが上げられている。賃貸工場には、初期投資が抑えられ、迅速に稼働できるという利点がある。
さて、一社目の訪問先は、自動車部品を主力とし、金属・樹脂部品の加工を手掛けるAD工業である。タイ進出のきっかけは、玩具メーカーZ社からの新規受注であった。収益多角化を目指し、「自動車・家電・雑貨」の三本柱を掲げる同社は、このZ社からの新規受注により、雑貨部門を強化しようと意気込んでいる。
明確な経営方針の提示が、明日へ繋がる戦略の源になり、窮地に追い込まれている中小零細企業の新規受注、現状打破の糸口になるのだ。豪一郎は、そう思った。
AD工業の現地責任者からは、こんな話を聞くこともできた。「同社にとって海外進出は大きな決断であった。」「タイ人従業員との意思疎通も一苦労だった。」だが、「常にアンテナを高く、時代に求められるモノづくりに取り組みたい。」との思いが支えになっているとのことだ。
2社目の訪問先M精密は、H社系の部品メーカーだが、A精機(T系列)のインドネシア生産子会社からの新規受注に成功した。同社は、海外事業を通して、T自動車グループとの取引を拡大している。
そもそもは、T自動車が世界戦略車をタイで立ち上げた際、T自動車のタイ工場に納入したところから始まる。
その後、インドネシアでD工業(T系列)とも取引を始めたという。顧問先のO製作所をこんなグローバル企業にしたい。豪一郎は、そう思った。
M精密は、H社の二輪車の海外展開に合わせて早くからグローバル化を進めており、T自動車系の中堅自動車部品メーカーよりも海外生産で先行していたのだ。
ここから読み取れるのは、二点。海外での系列の垣根の低さと、二輪車のビジネスモデルの四輪車への応用の可能性である。二輪車の部品メーカーが辿った道と同じ道を、四輪車の部品メーカーも辿ることになるのだろう。
豪一郎は、2社との面談メモを、顧問先のO製作所への『経営改善提案書』に、祈るような気持ちで差し込んだ。
サブタイトル:ウサギと亀 タイ編
サブタイトル:タイ人気質を踏まえた労務管理
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
シーラチャからバンコクへ向かう車中では、タイ人気質について、あるいはタイ人従業員との付き合い方といった話題が繰り広げられた。現地コンサルタントH氏から、こんな話を聞かされた。
タイ語に「Sam Ruam」という言葉がある。タイ人にとって、非常に大切な言葉であり、「大声をあげない」、「冷静さを保ち、怒らない」というマナーや躾を表す言葉である。英語では、「calm」という単語に相当するのだろうか。「微笑みの国」タイにふさわしい言葉である。
さて、タイにも「ウサギと亀」の御伽噺があり、エメラルド寺院のワットプラケオの壁画には、そのモチーフが描かれている。
タイ版「ウサギと亀」には、タイらしい「落ち」がついているそうだ。我々日本人が知っている「ウサギと亀」に続編があるのだ。負けたウサギは悔しくてならず、再度亀に挑戦した。「今度は、昼寝などせず、まっしぐらにゴールを駈け抜けてやる。」と亀に宣戦布告し、再レースが始まった。亀の歩みは変わらない。一方、ウサギは猛ダッシュ。しかし、ゴールが見えてくると、亀が既にゴール地点で昼寝をしているではないか。頭にきたウサギは、ふて腐れて途中で帰ってしまった。
眠れぬ一夜を過ごしたウサギは、次の日、再度挑戦すべく、亀の家へ向かった。すると、亀の家の中から、亀夫婦の会話が聞こえてくる。「頭に血が上ったウサギは、ゴールに居たのが(亀の)おかみさんだとは気付かずに帰ってしまったんだね」。それを聞いたウサギは、又逆上してしまった。そして、3度目の挑戦である。「今度は、夫婦競演はさせないぞ!」と亀の甲羅にペンキを塗った。そして、距離が長いほどチャンスがあると考えたウサギは、「今度は、世界一の長距離競争だ!」と提案した。
さてこの勝負、どちらが勝ったか。無論、亀だった。ウサギは、血が頭に上るあまり、大切な事を一つ忘れていたのだ。「鶴は千年、亀は万年」の喩えもある様に、亀は、ウサギよりもズーットと長生きする事を。
「ウサギと亀」の教訓は、日本では『油断大敵』とか『勤勉』といった事だろうが、タイでは違う。『怒りはすべてを失う』というのが、タイでの教訓であり、小さい時から強烈に刷り込まれる。
タイ人を人前で激しく叱責してはいけない、というのは、日系企業の責任者には、共通の認識だが、その背景の一つには、こうしたタイ人の幼少時からの刷り込みがあるのだ。タイ人と上手く付き合うには、こうしたタイ人気質の背景を知ることが有用である。そこには、きっちりと国民性が現れていて無視できない。
豪一郎は、顧問先のO製作所への『経営改善提案書』の「グローバル人材」のページに「タイでの労務管理」の項目を作り、H氏の話を素早く書き込んだ。
「『グレンジャイ(เกรงใจ)』という言葉を知っていますか?」H氏の話は続く。
サブタイトル:グレンジャイ(เกรงใจ)
サブタイトル:タイ人従業員と上手く付き合うには
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
「『グレンジャイ』って、ご存じですか?」バンコクへ向かう車中。H氏の話は続く。
日本人駐在員は、タイ人との付き合いにおいて、まずは時間や約束に対する考え方の違いに驚かされるという。それは、国民性の違いとして解釈される。そして、国民性は環境の違いが生み出すのだと、理解される。
たとえば、気候。タイには、四季はなく、年中温暖な気候のため、東北部を除き食料が豊富で、食うのに困らない。従って、伝統的に働く必要はさしてなく、また、争いが少なくおっとりとした国民性となる。
四季の変化に対応し、厳しい冬に備えるべく、メリハリのある生活を強いられてきた日本人とは対極の環境にあり、従って対極の国民性となる。日本人はせっかちだ、とタイ人は思っている。
閑話休題。「グレンジャイ」である。日本人駐在員は、赴任後暫くすると、この概念に悩まされるという。
「グレンジャイ」とは、「グレン=恐縮する、ジャイ=心」という合成語で、一般に「遠慮」と訳される。
ただ、日本人と同じ感覚の「遠慮」という形で現れることもあるが、一般に、日本人にとってかなり違和感を伴う形で表現される。
実は、「グレンジャイ」は遠慮・尊敬・畏怖・名誉といった概念の集合体である。そして、畏怖の中の恐怖 Kluwa(クワ)が強く作用して表現される、タイ人の考え方や行動に日本人は翻弄されるようだ。
Kluwa(クワ)は、①意思表示が怖い、②他との対立が怖い、③結果が怖いといった感情として現れる。
具体的には、
- 事故が起きても報告するのが怖い。
-分からない時、質問する勇気がない。
-提案をして、上司が合意しないことを怖がる。
-問題が起きて早急な対応が必要な時に、上司の考えていることと異なるかもしれない、と考えてアクションをとれない。
-リーダーになりたくない。(仲間から突出するのが怖い)
-仕事で問題が起きても、原因を追及しない(原因が怖い)。
-通常の仕事以外の事をするのを怖がる(新しいことが怖い)。
こうした、日常的に職場で直面する事象の背景に、「グレンジャイ」、あるいは、恐怖Kluwa(クワ)の心情があることを知っていることは重要である。とH氏は力説する。
「グレンジャイ」とは、Jai(心)を大切にし、感情豊かに、直接的な表現を好む国民性を持つタイ人に特有の恐怖心 Kluwa(クワ)と捉えた方が理解しやすい。
いずれにしても、事実としてタイ人にこうした感情が刷り込まれている以上、タイで仕事をする日本人は、きっちりと対応していかねばならない。
対策として、H氏が上げるのは、「励まし」と「刺激」を繰り返すことである。そして、働いて皆が豊かになるのが日系企業の考え方であることを理解させるべく、タイ人とのコミュニケーションを確立することだという。
「一筋縄では行くまい。」O製作所への「経営改善提案書」を開き、めずらしくネガティブな書き込みをする豪一郎であった。
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
「豪ちゃんは、アメリカ英語やな。」
スワンナプーム国際空港の出発ロビーのベンチに腰を下ろすなり、同行者I氏はそう言った。
商売柄、英語学習の相談はよく受ける。英語は道具に過ぎない。中国、インド、インドネシア等、所変われば英語も変わる。意思疎通ができれば、それでいい。大事なのは、伝えるべき内容、知識である。
が、豪一郎が大学生であった昔々は、きれいな英語、つまり「らしい発音」を身につけたいと多くの人が考えていた。豪一郎が、米語を身に付けたのは、そんな時代だった。
今の豪一郎は、「らしい発音」に興味はない。だが、TVのCMで流れる「アー・ユー・ホワイター」にはげんなりする。その発音ではリスニングはできないだろうと感じるからだ。「らしい発音」には、リスニング力という副産物があった。
「らしい発音」のコツは、語連結(リエゾン)と音声同化そして短縮である。
まずは、古典的な例を紹介しよう。
一定の抑揚を付けて「知らんぷり」と発声すると、アメリカ人には「Shit down, please.」と聞こえる。同様に、「掘った芋いじるな」は「What time is it now?」と聞こえる。
一つずつ見ていこう。
「Shit down, please.」は、「Shit」の「t」と「down」の「d」が語連結し、しかも日本語の「ら」に変身する。この「ら」は「R」でも「L」でもなく、正に「ら」なのだ。次に、「please」の「ase」がドロンと消える。これで、米語の「Shit down, please.」になる。
「What time is it now?」はどうか。「What」の「t」と「time」の「t」が一つの「t」として発音される。次に、「time」の「me」と「is」の「i」が、また「is」の「s」と「it」の「i」が連結し、「misit」となる。更に「misit」の「t」が消える。ただし、あたかも「t」があるかのように、ここで一拍入れ、「now」の「な」のみを発音するのだ。これで、米語の「What time is it now?」になる。
ついでに、「アー・ユー・ホワイター」も見てみよう。年配の方々は、「What」、「Why」、「Where」、を「ほワット」、「ほワイ」、「ほエア」と発音する。「White」も同様に「ほワイト」と発音すれば、上記のCMの様になる。この「Wh」の発音のコツは、腹式呼吸である。ここでは、「ホッホッホッタル来い」に助けてもらおう。おなかに力を入れて、のどの奥から声を出すつもりで、「ホッホッホッタル来い」と言ってみよう。この時の「ホッ」が「Wh」の発音なのだ。
「豪ちゃん、「らしい発音」の3つのコツについて、もっと詳しく教えてよ。」I氏は、前のめりになって豪一郎の話を聞いていた。
日本語フレーズ活用
より高度な英会話の為の簡単なコツ
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
タイ式マッサージ店のマッサージチェアに横たわり、同行者I氏に語り始めた。時折出てくる英単語に、マッサージ師が反応する。バンコクでは、どこでも英語で事足りる。観光客も増える筈だ。
さて、英語リスニング向上のコツは、語連結(リエゾン)と音声同化そして短縮である。日本語の発音やフレーズを流用でき、しかも日常の会話で頻繁に使われるフレーズを紹介しよう。
寿司屋ではお茶のことを「上がり」と言うが、「が」にアクセントをつけて発声すると、アメリカ人には、I got it!と聞こえる。「I(アイ)」のイが消えて、「got it」の「t」と「i」が連結し、しかも日本語の「り」と発音すれば、米語の「I got it!」の出来上がりである。「理解した、思いついた」等の意味で使われ、「I」を省略して、「Got it?」だけでも使われる。外国のお客様とのやり取りで、豪一郎が多用するフレーズである。Got it? わかりましたか?
次は、「んだ」である。東北弁で相づちを打つ時の言葉である。東北の人は、かなり難解な英語の発音も比較的簡単にやってのけると聞いたことがある。ポイントは、「んだ」に象徴される鼻音にある。
商談でも多用されるimportant(重要)という単語などに、この鼻音が使われる。発音のコツは、imporの「r」をしっかり巻き舌で発音したら、東北弁の「んだ」の「ん」だけを付けるのである。この「ん」は、否定形の単語に応用が利く。たとえば、didn’t、couldn’t、hadn’tといったところか。
最後は、副詞について話そう。英語で会話する際、より細かな感情やより詳細な状況を伝えるのに不可欠なのが副詞である。使い慣れたフレーズに、状況に応じて適切な副詞を付加するだけで、会話がより高度になるのだ。たとえば、Completely。これを付けるだけで、一歩踏み込んだ説明ができるはずだ。ところが、日本人はこの単語の発音が一般に苦手である。日本人は、コンプリートリーと「ト」と入れて発音してしまう。アメリカ人がこの単語を自然に発音すると、コンプリーリーと「t」が聞こえなくなってしまうのだ。この発音のコツは、簡単である。「コンプリー」まで発音したら、すぐ舌先を歯茎に強く押し付け、「リー」と発音すればいい。アメリカ人と同様に「t」を消してしまうのだ。この発音方法が応用できる単語としては、Exactly、fortunately、accuratelyなどが挙げられる。
「どう、おもしろい!?」
さっきまで興味深げに聞き入っていたI氏は、派手に寝息を立て始めた。足裏マッサージが心地良いようだ。豪一郎は、マッサージチェアに横たわったまま、脇に置いた鞄から顧問先のO製作所への『経営改善報告書』を取り出し、SWOT分析のA3用紙を拡げた。そろそろ経営の話に戻そうか、と豪一郎は呟いた。
SWOT分析
外部環境を適切に把握し、柔軟に戦略策定
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
『豪ちゃん、なんやその表は?』
SWOT分析表に見入る豪一郎に、バンコク視察の同行者I氏が語りかけた。
SWOT分析表から目を離し、豪一郎は、語り始めた。
SWOT分析とは、1960年代から70年代に、スタンフォード大学で研究プロジェクトを導いたアルバード・ハンフリーによって構築されたフレームワークである。市場における『機会』・『脅威』(外部環境)と、特定企業の『強み』・『弱み』(内部要因)を、マトリックスにして現状分析を行い、その分析結果から事業戦略が導き出される。経営課題を明確化する際にも使用される手法である。
豪一郎は、『機会』と『強み』に書き込んだそれぞれの項目を組み合わせながら、説明を続けた。つまり、『強みを活かし機会をものにする』戦略である。この過程が、いわゆるクロスSWOTと呼ばれるもので、今、豪一郎は、『機会』と『強み』とをクロスさせる『積極戦略』を考えているのである。短期的に結果を出すには、まず『積極戦略』を実行するのが定石である。
たとえば、タイへの進出。多くの日系メーカーが既に進出しており、日本式の機械修繕需要が益々高まっている。機械修繕企業にとって、そこには、『機会』がある。そして、日本では他社でも当たり前に行っている、日本式のきめ細かな機械修繕サービスが、タイへ進出すれば、同社の『強み』となる。この「~すれば(たら、れば)」という考え方も重要である。
さて、SWOT分析にはいくつかコツがあるが、豪一郎は、こんな風に話を続けた。
孫子の「敵を知り己を知らば百戦危うからず。」と同様に、SWOT分析でも、まず敵、つまり競合企業を含む外部環境の検証から始めることを推奨する。
それは、豪一郎が外部環境を重視している現れである。顧問先企業が置かれた独自の外部環境という土俵の上でのみ、適切な内部要因分析が可能だと考えるからである。
この時、豪一郎は、MBAの組織論のクラスで習ったコンティンジェンシー理論(Contingency theory)を思い出していた。日本語では「偶発理論」と訳されている。
コンティンジェンシー理論とは、外部環境の変化に応じて、組織管理の方針を柔軟に変化させようという理論である。組織構造においては、どの企業にもあてはまる唯一最適な組織はなく、そのときの企業のおかれた状況、要因によって組織の構造が規定される、という考え方である。
豪一郎は、この理論を次のようにも理解し、活用している。
ある特定の外部環境が、どんな企業にも『強み』になるとは限らない。つまり、外部環境をどう理解するかにより、戦略策定が大きく左右されるのだ。
続いて、SWOT分析を行う際に、有効なフレームワークをいくつか紹介してみよう。同行者I氏は、腕組みして聞き入っている。
PEST分析
SWOT分析に有効なフレームワーク
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
「SWOT分析を行う際に、有効なフレームワーク!って、面白そうやな!」機内へ移って、赤ワインに切り替えたI氏が、大きな声を上げた。
SWOT分析を行うには、まずは、目的を明確にする必要がある。例えば、顧問先の自動車部品メーカーO製作所のタイ進出成功の可能性、といった具合だ。目的を決めたら、外的要因(『機会』・『脅威』)を書き出していく。
さて、ある程度外的要因を出し尽くしたら、整理・統合してみよう。ここで、フレームワークの登場である。フレームワークの持つ切り口に従って、互いに似たアイディアを整理・統合するのだが、切り口に沿って整理するうちに、もう出し尽くしたと思われた要素が、思い浮かぶことがある。そんな便利なフレームワーク、まずは、外部環境の分析に使われるPEST分析を見てみよう。
PEST分析とは、「政治的(Political)」環境、「経済的(Economic)」環境、「社会的(Social)」環境、「技術的(Technological)」環境の頭文字をとったもので、自社を取り巻く外部環境および自社が置かれた状況を正しく認識するのに活用する。
個別に見て行こう。
政治的環境:政治や法規制等が企業に及ぼす影響のこと。政治的環境の変化は、企業にとって新たな『機会』となる場合もあるが、『脅威』となる可能性もある。たとえば、2009年3月から実施された、ETC搭載車限定の土日・祝日の高速道路料金上限1,000円政策。恩恵をこうむった観光地、飲食店もあろうが、一方で、物流業界には、渋滞発生による、運転手の超過勤務や燃料費増加といった脅威がもたらされた。
経済的環境:景気、物価、為替などの経済情勢が企業に与える影響のこと。経済的環境の変化は、企業の戦略に大きな影響を及ぼす。たとえば、円高が続けば、多くのメーカーの海外生産シフトが進み、一転円安基調となれば、海外の設備投資が延期される。
社会的環境:人口動態、ライフスタイル、トレンド、文化、宗教などの変化のことで、企業のマーケティング戦略に影響を及ぼす。たとえば、国内の人口減少、若者の自動車離れ、といった社会的変化により、新興国は生産拠点としてばかりでなく、魅力的な市場としての存在感を高めている。
技術的環境:技術革新が企業に与える影響のこと。たとえば、IT。インターネットやEメールの普及により、営業・広報活動のやり方が一変した。以前は、資本力の差がそもそも戦う土俵を決めたが、ITの普及により、業界内での競争構造が大きく変化した業界は少なくない。
さて、PEST分析等のフレームワークがSWOT分析で力を発揮する要因は、「漏れなくダブりなく」の考え方にある。
「豪ちゃん、どういうことや?」
また、来週。豪一郎は、タイ視察同行者I氏に向かって、ニカっと笑った。
MECE
漏れなく、ダブりなく
翻訳会社社長と中小企業診断士という二足のわらじを履く豪一郎。
企業が戦略を策定する際、SWOT分析を使って、外部環境と、内部要因を書き出して検討するが、その際、気付かずに活用しているのが、「MECE」という考え方である。
MECE(ミーシーもしくはミッシー)とは、Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive(相互に排他的で、集めると網羅的)の頭文字をとったもので、「漏れなく、ダブりなく」と訳され、SWOT分析などのロジカルシンキングで活用されている。
まずは、「漏れなく、ダブりなく」ターゲットを細分化する例を見てみよう。
成人女性向けの商品を扱っている企業が、ターゲットごとに宣伝内容を差別化する方法を模索しているとしよう。
成人女性をOLと主婦に分けた場合、学生は含まれないので、漏れが生じてしまう。次に、主婦、OL、学生に分けた場合、主婦かつ学生、OLかつ学生というダブりが含まれる。成人女性を20代、30代、40代、50代、60代以上、のように分けると、漏れなくダブリがない状態で、広告内容の差別化が可能になる。
さて、MECEを効果的に活用するには、MECEの切り口に関して、できる限り多くの引き出しを持っていると便利である。
MECEの切り口としては、4つの型に分かれると言われる。ここでは型ごとに切り口を紹介しよう。
1. 要素分解(足し算)型
・3C/4C:Company(自社)、Competitor(競合)、Consumer・Customer(市場・顧客)、Channel(チャネル)
・4P:Place(場所)、Price(価格)、Product(商品)、Promotion(販売促進)
・PEST:Political(政治)、Economic(経済)、Social(社会)、Technological(科学技術)
・5 Forces:新規参入の脅威、代替財の脅威、買い手の力、売り手、競合の脅威
・5W2H:what、where、when、who、why、how、how much
・ヒト、モノ、カネ、情報、時間
ちなみに、SWOT分析はこの型に分類される。
2. 時系列・ステップ型
・過去、現在、未来
・短期、中期、長期
・製品開発、調達、生産、販売、物流、サービス
・製品ライフサイクル
3. 対照概念型
・効率/効果
・質/量
・自分/他人
・長所/短所
・ハード/ソフト
・有形/無形
4. 因数分解(掛け算)型
・利益=(顧客単価 - 顧客獲得コスト - 顧客原価)×顧客数
・売上=顧客単価×顧客数×購入頻度
・売上=従業員1人あたりの売上×従業員数
MECEに分ける目的を明確にし、適切な切り口を選び、漏れなくダブリがないよう、物事を分析し、判断できるようになれば、通常よりも非常に短時間で、成果を出すことができるのだ。
岐路
共有すると言うこと
翻訳会社社長とビジネス・コンサルタントという二足のわらじを履く豪一郎。
帰国した夜、報告書をまとめる豪一郎の携帯が鳴った。顧問先のO製作所のT社長からである。明日にもタイ視察報告を聞きたいと言う。豪一郎は、明日の訪問を約束した。
が、この時の豪一郎は、自らが経営者として重大な岐路に立たされるとは想像だにしていなかった。
報告会は、午後1時からだと聞いていた。だが、会議室には、T社長一人が待っていた。怪訝な顔を浮かべる豪一郎を、T社長は正面の椅子に促し、豪一郎が腰を下ろすや否や、語り始めた。
タイ視察前の調査結果、タイ滞在中の面談の逐一を、T社長には、メールで報告してきた豪一郎である。社長に対しては、特に新たに報告することはない。
『豪一郎君。。。』
ただ事でない雰囲気は、会議室に入った時から、豪一郎は感じ取っていた。
『。。。社長として、海外拠点の立ち上げを指揮してくれないか。』
耳を疑いつつ、豪一郎は返した。
『海外拠点の支社長、ということですね?』
T社長は、首を縦には振らなかった。
間もなく、4人の取締役が集まり、豪一郎のタイ視察報告が始まった。
タイ人気質、現地での受注可能性、複数の工業団地の比較、O製作所の財務分析結果。およそ1時間に亘って、昨日までに調べたタイを、実際にその目で見てきたタイを豪一郎は丁寧に報告した。
『それで、ウチは、海外へ進出すべきだと思いますか?』Y専務の問いかけに、豪一郎は、こう返した。
『国内市場の縮小傾向と、新興国・北米の自動車業界の今後を考えると、そして、御社の財務状況、更にはT自動車以外の自動車メーカーからの受注可能性を考えると、私は。。。』
珍しく、豪一郎は言い淀んだ。以前の豪一郎なら何と応えただろうか。そして、社長就任を打診された今、豪一郎は、何と応えるのだろうか。年商100億円。200名を超える従業員。現調率を高めるR工業からの、4年後の受注ゼロ宣告。
『私は。。。出るべきだと考えます。ただ、最後は、社長のご決断です。』
最後の一言を発した時、報告中のもやもやとした気分が晴れ、自らが新たな境地に踏み入る姿を見た気がした。
コンサルタントとして見てきたタイ。社長就任の打診、そして今、進出の是非を問われている。
コンサルタントは、決して自ら決断を下すものではない。最後に決断するのは、社長である。ただ、社長の決断にあたり、あらゆる判断材料を全身全霊をかけて調べ上げ、決断者に提示するのがコンサルタントの任務である。
コンサルタントの発言に、社長の決断を誘導する内容があってはならない、といつもは思っている豪一郎である。
『私は、出るべきだと考えます。』との自らの発言が、意外なモノとして、豪一郎の頭の中で渦巻いていた。
T社長と酒を酌み交わしながら、O製作所の『目指す姿』について語り合った夜を、ふと思い出す豪一郎であった。
決断の時
強みを強みたらしめる
翻訳会社社長とビジネス・コンサルタントという二足のわらじを履く豪一郎。
O製作所からの社長就任の要請に戸惑う豪一郎だが、今日も、経営者兼コンサルタントとしての活動を精力的にこなしている。
「O市のU精機さんでは、常温でのマグネシウム加工に成功し、製造工程の動画をホームページにアップしたところ、韓国メーカーから引き合いがあったんですよ。」
N機械のK社長は、豪一郎を睨みつけるようにして、聞き入っている。バイトからトップにまで駆け上がった同氏は、気さくで、発明付きな好奇心旺盛な経営者である。K社長の隣で的を射た発言をされる、経理担当のMさんの存在も、豪一郎を話し易くしてくれる。
この日の訪問先は、H市にある工作機械の改造・修繕メーカーN機械である。リーマン・ショックの衝撃から、遊休設備の復元サービスと技術者の海外派遣により、早期に回復したN機械は、年々売上高を増加させている。今回の豪一郎への相談内容は、『海外進出』である。技術者の海外派遣という形で、輸出ステージはクリアしている。次は、主要顧客である自動車部品メーカーA社の海外拠点に、現地からサービスを提供したいという内容であった。日本式のきめ細かなサービスが海外では大きな強みとなるのだ。ただ、海外拠点を運営できる人材をどう育てるのか。K社長の悩みは深い。
一方で、A社への一社依存を脱却し、顧客を多様化する為、昨年12月にホームページをアップしたのだが、早速工作機械メーカーB社から引き合いがあったと言う。この話を受けて、豪一郎は動画の発信とホームページの改善を実施したいと提案した。
海外進出を成功裏に遂行するには、国内の守りと、海外での攻めを同時に進めていかなければならない。
本日のN機械訪問の目的は、過去2回の社長ヒアリングの結果を受け、最初の提案を行うことである。コンサルタントの仕事の始まり方は様々だが、こうして最初にヒアリングを行い、顧問先企業の社長の要望に即して、提案を行い、具体的な改善スケジュールを立て、一緒に実施するというのが、一般的な流れだ。
国内の販売強化は、K社長の営業活動をホームページやSNSの活用で豪一郎がサポートし、海外進出に関しては、セミナー、公的機関等での情報収集や海外視察を通して、豪一郎が中心になってFS(フィージビリティー・スタディ)を行う方向で、この日の話し合いを終えた。N機械がターゲットとする北米とインドネシアのネットワーク構築が、豪一郎の直近の課題となった。O製作所の相談案件に着手し、タイの情報収集・研究を始めたちょうど一年前のことを、豪一郎は、複雑な気持ちで思い出していた。
N機械を後にし、H市駅で電車を待つ豪一郎の携帯が鳴った。O製作所のT社長からである。T社長からの社長就任要請に対する、豪一郎の返事を聞きたいと言う。豪一郎は、明日夕方の訪問を約束した。
サブタイトル:コンサルタントと経営者
翻訳会社社長とビジネス・コンサルタントという二足のわらじを履く豪一郎。
さあ、行こう。
1年余りにわたり、自分なりに診断してきた、O製作所。そして、やはり1年余りにわたり調査し、自らの目で見て、肌で感じてきたタイ。コンサルタントとしてではなく、自ら指揮を執りたいと思うようになっていた。そこに、O製作所T社長からの社長就任要請である。悩みに悩んだ日々であったが、今日、豪一郎は、T社長に自らの回答を伝えなければならない。
O製作所へ向かう車中、昨夜の補償コンサルタントA先輩とのやり取りを思い出していた。
大きな決断を迫られた時、豪一郎はA先輩と飲む。とはいっても、その時抱えている問題については、一切語らない。
『社長、共に経営を語ろう!』
問題の核心を語り合わなくても、経営者同士、何気ない会話の中に、自らの決断を促す何かを見出す時がある。それは、パラダイムの転換とでもいう瞬間であり、A先輩の世界観は、豪一郎に、そうした体験を促す。
思えば、補償コンサルタントという仕事は、パラダイムの転換の連続なのかもしれない。補償コンサルタントの仕事は、簡単に言うと、こんな感じだ。
道路を拡張するという「公共事業」が行われる過程で、拡張したい箇所にお店があるとしよう。そのお店は、国や地方公共団体から『正当な補償』を受け取る権利がある。その時、活躍するのが、幅広い知識と専門的な技術を備えた補償コンサルタントである。
A先輩の仕事の話は、実に面白い。いつもぞくぞくさせられながら、聞き入る豪一郎である。「私の仕事に要求されているのは、『現況に同等の機能回復』なのね。それが、『正当な補償』なんだよ。」
『正当な補償』を達成するために、A先輩の自由な発想、こだわりながらこだわらない姿勢が如何なく発揮される。それでいて、建築士顔負けの緻密な計算も必要とされる仕事だ。
難題にぶつかると、A先輩は、妙案をもってプロジェクトを遂行する。経営には、常に数々の制約が課せられる。制約を前提として、経営者は突破口を探り出さねばならない。
社長室の半開きの扉に掌をあて、そっと力を入れると、社長の椅子に座る、D新専務の姿が、目に飛び込んできた。今月末、専務に就任する予定の、T社長の娘婿である。
豪一郎と目が合うと、D新専務はこう言った。
「豪一郎先生、『現実は小説よりも奇なり』ですよ。」
その言葉に、返す言葉もなく、豪一郎は、にかっ、と笑った。
時に、客観的な状況判断よりも、そうでないモノが優先される場合がある。すべては、人がすることだから。
「小説でも、書いてみようか。」
豪一郎は、この一年余りの調査に、ケリを付けようと、ふと思った。
完
本年3月6日から半年間、『社長、共に経営を語ろう!』にお付き合い頂き、ありがとうございました。
また半年後、いや、近いうちに一回り成長した豪一郎を、どこかでお届けしたいと思います。
お楽しみに。